Neil and Rush and Me

Neil PeartのドラムとRushの音楽をこよなく愛する大学教員の日記(雑記)帳です。

ゼミ生の講義出席率をめぐる雑感

僕が担当する専門講義「経済学説史」は、今年度、11名の現役ゼミ生が履修登録している。出席はとっていないし、加点するつもりもないが、5月16日・6月13日の2回、ミニッツペーパーを書いてもらったので、出席状況は把握できている。これがたいへん悲しい数字。

2回とも出席は1名だけ。どちらか1回出席が3名。どちらの回も欠席が7名。要するに、3分の2以上のゼミ生に「好かん」を食らっているわけである。

今年度の講義内容は自分でもかなり自信があり、1人でも多くのゼミ生に聞いてもらいたい。実際、講義内容をきちんと咀嚼してくれていれば、プレゼンの組み立てももっと筋道だったものになるはずだ。しかし・・・教室に来てくれない。金曜1限がしんどい曜限なのはわかるが、2回生は金2が語学であるし、3回生は金3がゼミなのだから、もう少し出席率が上がってもおかしくないはずなのだが。1回でも講義を聞いてくれれば、役立つ内容であることがわかってもらえるはずなのだが。

1期生の大半(21名中おそらく17〜8名)はこの「経済学説史」の講義を聴講して、講義内容を「面白い」と思って僕のゼミを志してくれたのだが、時代はすっかり変わってしまった。僕は「ゼミの先生」であって、それ以上でもそれ以下でもない、ということだろうか。あるいは、ゼミ生の先生だから、授業に出なくても、単位は甘くしてもらえる、という目論見があるのだろうか。どちらにしても悲しい。

ゼミでは90分間、プレゼンも質疑応答も、ゼミ生にゆだねているので、僕が解説する時間はほとんど残されていない。多くても10分くらいか。だから、筋道だった考え方をゼミの時間だけで教えることには限界がある。僕としてはゼミと講義をできるだけセットにして大学教育を考えたいのだが、最近のゼミ生にはこの考えがなかなか理解してもらえないようだ。

もっとも、こうした考えは僕の独りよがりかもしれない。120名を超える2回生が履修してくれているのに、僕のゼミに応募してくれたのは4名だけだった(結果的に4名とも合格したが)。彼らにとって「つまらない」講義なのかもしれない(しかし、ミニッツペーパーを読むかぎり、今年の講義に対する受講生の反応はきわめて良好なのだが)。

日本各地の多くの大学が少人数教育、ゼミ重視を「教育力」として広告している。それではそれでよい。しかし、それが講義の軽視を引き起こすのであれば、残念なことである。大学の教員は先生である前に研究者であるし、研究成果を通じて教育するわけで(ここが中学・高校との最大の違い)、講義こそ大学での学びでの中核であるべきだと思う。ゼミはホームルームのようなもの。それだけで大学の学びは完結しないのではないだろうか?

蛇足ながら、僕は学生(学部・院)時代、「社会思想史」の講義を4種類受けている。卒業のための単位を修得したのは木崎喜代治先生が担当された講義だが、社会思想史への興味が尽きなかった僕は、単位修得と無関係に、田中秀夫先生、安藤隆穂先生(非常勤)、坂本達哉先生(非常勤)の「社会思想史」を受講した。思想の比較だけでなく、講義スタイルの比較もできて、どの講義もとても面白く拝聴した。このような僕の学生時代の行動は、最近の大半の学生にはもはや理解不能であろう。「単位にならないのに講義に出席したんですか!?」「暇だったんですね」

学生たちが体験学習型の学びへ過度に惹かれがちな風潮(→読書・座学の軽視)にも異議を唱えたいのだが、きりがないので、今日はやめておく。

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