Neil and Rush and Me

Neil PeartのドラムとRushの音楽をこよなく愛する大学教員の日記(雑記)帳です。

アダム・スミス『国富論』より

230年前に書かれた文章。まるで今の日本を見透かしているかのようだ。こういう文章との遭遇こそ古典研究の醍醐味の一つ。

立派な公道を、商業もあるかなきかの僻地を縫ってつくるわけにはゆかないし、あるいは、たまたまその州の知事の田舎の別荘とか、この知事がごきげんをとっておいたほうがぐあいがいいと思う大貴族の別荘とかに通じるからというだけの理由で、つくるわけにもゆかない。大きな橋を、だれも渡りもしない個所に架けたり、近くの御殿の窓からの眺めにいろどりをそえるだけのために架けたりするわけにはゆかない。*1

もっと強烈なこんな文章もある。

身分も高く財産もある人は、その地位のゆえに、大きな社会の成員としてきわ立った存在であり、そこで社会はかれの一挙一動にまで耳目をそばだて、ひいては、かれのほうも自分自身の一挙一動に気を配らざるをえなくなる。…これに反して、身分の低い人は、大きな社会のきわ立った成員などというものからは、およそかけ離れている。田舎の村にいるあいだなら、かれの行動は注目もされようし、そこで、かれのほうも自分の行動に気を配らざるをえないかもしれぬ。…ところが、大都会に出てくるや否や、かれは世に埋もれ、不善のうちに身をひそめる。かれの行動を観察したり注目したりする者など一人もいはしないし、そこでまた、かれのほうも自分の行動をおろそかにし、ありとあらゆる低劣な道楽と悪徳に身を持ち崩すことに、どうしてもなりやすい。こんな名も知られぬ状態からうまく抜け出し、かれの行動が、いずれかの立派な社会集団の注目の的になるためには、宗教上の小宗派の一員となるにしくはない。その瞬間から、かれは、いまだかつてもったことのない、ある程度の重みを備えた人物となる。すべてかれと同門の信徒たちは、その宗派の名誉のために、かれの行動を観察しようと注意を払い、もしかれがなにかの醜聞をひき起したり、かれらがつねづね互いに戒め合っている厳格な道徳から、かれが大きく逸脱したりするなら、かれを罰しようと注意を払う。*2

*1:大河内一男監訳『国富論』中公文庫、第三分冊、57ページ。

*2:大河内一男監訳『国富論』中公文庫、第三分冊、169-170ページ