Neil and Rush and Me

Neil PeartのドラムとRushの音楽をこよなく愛する大学教員の日記(雑記)帳です。

経済学会懸賞論文

土曜日ではあるが、入試査定教授会のため出勤。

終了後、経済学会懸賞論文(学部生対象)の合同審査会。僕のゼミからは2人が応募したが、2人とも選外となる。僕のゼミ生はもっぱら非経済学的なテーマを非経済学的に展開しているため、もともとこの手の賞から縁遠いのだが*1、この2人はテーマの選択も文章もしっかりしているし、関連文献も入念に読んでいるので、「佳作くらいには引っかかってくれるかな」と期待して、僕から応募を薦めてみた。しかし、残念な結果に終わった。

残念な結果に終わったいちばんの原因は、僕の卒論指導のスタイル(の変化)にある。ドイツ中世史の権威・阿部謹也さんは、一橋大学の学生時代、卒業論文の執筆に際して、師匠の上原専禄教授から「それをやらなければ生きてはいけないテーマを探しなさい」とアドバイスされたとのこと。そのアドバイスがその後の人生を決めたと、阿部さんは後に自伝で述懐している。実は現在の僕の卒論指導のスタイルもこの上原教授の言葉に大きな影響を受けている。例えば、「シュンペーターイノベーション論で卒論を書いてみたらどうだろうか?」などとサジェスチョンして、読みこなせそうな関連文献を紹介・用意してあげれば、千里山大生の能力からすれば、そこそこのレベルの論文を書き上げてくれるはずだ。懸賞論文にも入賞しやすくなるだろう。わかっているのだが、現在の僕にはそれができなくなっている。抵抗感を覚える。「何のための卒論?」という疑問が湧いてくる。書き手の実存を求めてしまう。何より「おもろい」論文が読みたい。

ゼミ生の大半は、将来、経済学のプロになるわけではない。展開したい議論に自分から経済学的な枠をはめて「おもろさ」を減ずる必要はない。こじんまりとまとめないほうがよい。2年以上一緒に過ごしてきたゼミ生同士であっても、人生に対する態度などをまじめに語り合ったことはないはず。それは今しかできないことだ。自分という人間を他者にもっと知ってもらう努力の一環として書きなさい。22歳の自分の魂の記録として書きなさい。書きたいことはすべて文字にしなさい。格好をつけてはいけない。自分の気持ちに嘘をつくべきでない。これが本当に自分の書きたいことなのか? これを書いたことによって自分の世界観はどのように変わったのか? 中間報告ではこんな感じでコメントしたり質問したり(≒つるしあげたり)して、そのレスポンスを加筆させているものだから、論文はますます非経済学的なものへと変貌してしまう。挙句の果てには、論文であることをやめて、人生をめぐるエッセイになってしまう。

彼らは自分の言いたいことが言語化できて「腑に落ちる」快感を体験している。これこそ僕が彼らにぜひとも体験させたい快感なのだ。それは大学で学ぶことがなければ体験できない類の快感であるはずだから。しかし、そのために論文としての体裁を犠牲にしていることも確かだ。両立が難しい。選外になってしまった2人には、期待させてしまったぶん、申し訳ないことをした。まだまだ指導力が不足している。2本とも、僕としては、自信作だったのだが。

夜はH本BOSSと想定外の飲み。半ばやけ酒になってしまう。やはり悔しい。筋トレ休止。

いつも訪問させていただいているブロガーの方が、隣人の連夜の大騒ぎで睡眠不足が続き、たいへんお疲れのご様子。本当にご愁傷様です。実は僕も前の住居(茨木)では、隣室の赤ん坊の夜泣きで深夜に目覚めさせられ、睡眠不足のまま朝を迎えることが少なくなかった。僕以上に赤ん坊のご両親のほうが大変なはずなので、苦情を言ったりしなかったが、「この家賃(決して安くない)にしては壁が薄すぎるんじゃないの?」という疑問はいつも感じていた。これが転居の遠因になったことは確か。新居は、隣人が大人しいのか、防音がしっかりしているのか、どちらなのかわからないけれども、とにかく静かで、上の階の部屋の住人の足音もまったく聞こえず、毎日安眠させてもらっている。本当に住み心地が良い。素晴らしい。大満足している。

*1:かなり経済学的な内容に特化していた1期生と2部ゼミからは4名が入賞しているが、非経済学的な内容を許容するようになった2期生以降は入賞者ゼロである。