Neil and Rush and Me

Neil PeartのドラムとRushの音楽をこよなく愛する大学教員の日記(雑記)帳です。

艱難汝を玉にす?

今日1月17日は勤務先の大学の修士論文の提出締切日だった。3期ゼミで2年半にわたってチューターを務めてくれたHさんからも「無事修論を提出できました」との報が入り安心した(お疲れさま)。僕が北大和川大学の大学院だった時も、修論の提出締切日は1月17日だった。どうしてこんなことを覚えているかと言えば、その日にあの阪神大震災が起こったからだ。

ちょうどあの日あの時、僕は前日から徹夜で修論を書き終え、プリンタで原稿を打ち出し、誤字・脱字の最終チェックをちょうど行っている最中だった。朝一番で事務室に原稿を提出して、そのまま下宿に帰って爆睡する予定だった。しかし突然・・・。

電車が動いていない。大学に行けない。修論を提出できない。

「こんなことで僕は留年してしまうのか!?嫌だ!嫌だ!!嫌だ!!!」*1

僕は完全に狼狽していた。パニック状態だった。

突然の肺病でM2の11・12月という大切な時期を棒にふり、最後の2週間(1月前半)で一気に400字詰40枚を書かざるをえなくなった。何度も修論の提出を諦めかけた。退院はしたものの相変わらず残る手術の痛みをアルコールで紛らわさなければならないほど、肉体的にも精神的にも追い込まれていた。まさに修羅場だった。しかし何とか根性だけで100枚という規定枚数を超えることができた。*2あとは提出するだけ。

「もうすぐこの苦しみから解放される。ゆっくり休める。」

その気持ちがあまりに強かったので、僕はパニック状態に陥ってしまった。よくよく考えれば、修論の締切が延期されることなど、十分に予想できたはずなのだが、そんなことに考えが及ばないほど、脳内テンションが極限まで高まっていたのだ。

あの日あの時、学問することの奥深さと恐ろしさを初めて垣間見た気がする。

あの日あの時を境に、精神的に一回りも二回りも強くなれた気がする。

11年前。26歳だった。*3

*1:留年が嫌だったのではなく「こんなこと(天災)」で留年したくなかった。

*2:締切の数日前、指導教授のS先生に恥ずかしい電話を入れてしまった。「先生、2、3枚届かなくなるかもしれませんが、それくらい大丈夫ですよね?」「何バカなことを言っている。規定は守るためにあるんだ。守らなくてもいい規定だったら、最初から要らないじゃないか。」一蹴された。「もう書けない。書きたくない・・・。」半泣きだった。

*3:ちなみに修論のタイトルは「初期バークの思考法--『自然社会の擁護』通説的理解の批判的検討--」。18世紀イギリスの代表的政治家・政論家バークの政界進出(1765)以前の著作である『自然社会の擁護』『アイルランドカトリック教徒刑罰法論』から、保守主義的言語と急進主義的言語を摘出し、そこから若きバークの改革者的信条と文明社会観を再構成し、彼の直面していた思想的課題がアダム・スミススコットランド啓蒙思想家のそれと本質的に同じであることを立証しようとした論文。あれから11年もたってしまったが、いまだに蹴りをつけられずにいる。それだけ豊穣で奥の深い研究テーマなのだ。