Neil and Rush and Me

Neil PeartのドラムとRushの音楽をこよなく愛する大学教員の日記(雑記)帳です。

私的メモ(諸富祥彦『〈むなしさ〉の心理学』より)

近日中に「乱読ノート」できちんと採りあげるつもりですが。

いろいろなことが思うように運ばない。悩んでも悩んでも、ちっとも事態は変わらない。
にっちもさっちもいかなくなって、死にたいと思うのだけれど死に切れない。自分の置かれている現実から逃げるわけにはいかないことはわかっている。
けれどふと、あまりの重苦しさに耐え切れなくなって「もう、どうにでもなれ」「どうなったって、かまわない」と、すべてを投げ出してしまいたくなる。
そんな時私たちは、それでも自分のからだの内側に、ほのかに息づく何かを感じることがある。死のうが生きようが関係ない。そのような私たちの思い煩いとは関係なく、からだの内側で勝手に生き動いている何かを感じることがある。
それが、ここでいう〈いのちの働き〉である。・・・。
次の例を見よう。「どう生きればいいのか」考え続けるうちにうつ状態になってしまったという女子学生。彼女は手紙に、次のように書いている。

「現在はよくなったのですが、その時はほんとうにつらかった。死にたくなるのをなんとか抑えようと必死でもがくのですが、焦るばかり。緊張するばかりで何の解決も見つからぬまま、ただ空振りしたような疲れが生じるだけで、また死にたくなるという悪循環のくり返しでした。「死にたい」と「生きたい」がせめぎあい、あまりの疲れに思考停止した時でした。「死にたいのに死ねないというのは、私は生かされているにちがいない」――そう見方を変えただけのことが私を楽にしました。頑張らなくても、自分がそこにあったのです。心のもやもやが急に晴れ間を見せた気がしました。」

「死にたい」と「生きたい」がせめぎあう。そのあまりの重苦しさに疲れ果て、もう何も考えることができなくなった時、「死にたいのに死ねないのは、生かされているということだ」と彼女は気づいた。それがうつから立ち直る一つのきっかけになったという。(pp.190-1)

人間関係というものは本当に難しい。僕が自分の正直な気持ちを母に素直に伝えられるようになったのは、父を亡くしてからのことである。人間とは、大切な何かを失うことによってしかありのままの自分を認めることができない、臆病で強情で愚かな生きものなのかもしれないな。