Neil and Rush and Me

Neil PeartのドラムとRushの音楽をこよなく愛する大学教員の日記(雑記)帳です。

追悼・仰木彬監督

近鉄オリックスの監督を歴任した仰木彬さんが亡くなられた。

http://www.asahi.com/obituaries/update/1215/002.html

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051216-00000003-mai-soci

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051216-00000021-nnp-kyu

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051216-00000016-sanspo-spo

野球一筋に燃え尽きた。平成13年に一度はオリックスの監督を退いた後も、体調悪化で入退院を繰り返していた。昨年、オリックス近鉄の合併が決まると、両球団を熟知した最適任者として初代監督を請われた。

70歳という高齢ながら陣頭指揮を執り、9月1日の西武戦(スカイマーク)では判定に怒り、試合後、審判室に怒鳴り込むなど気迫を見せた。それは精いっぱいのパフォーマンス。実際は体調悪化に苦しむシーズンだった。

夏場も長袖シャツにウインドブレーカー。抗がん剤を使用していたため、薬の副作用の跡がある肌を露出するのを嫌った。9月中旬には顔色も悪くなり、試合開始ギリギリまで監督室にこもるようになった。睡眠もままならず、食欲も次第に落ちていった。それでもシーズンを戦い抜いた。(サンスポ)

死因は肺がんらしい。奇遇にも自分の父と同じだ。この悲しみをどう表現すればよいのだろう。ショックが大きすぎる。涙が止まらない。

近鉄*1ファンの僕にとって、仰木監督はあまりにも特別な存在だ。西本幸雄監督時代から、細々と近鉄を応援していたものの、「私は近鉄ファンだ」と公言するくらいまで入れ込んで応援するようになったのは、仰木監督が采配を揮った最初の年、1988年の有名な*2「10・19」がきっかけだ。

「10・19」のすさまじさを文章化できる才能は僕にはないので、詳細は下に紹介したノンフィクションに譲るが、ダブルヘッダー(対ロッテ、川崎球場)で近鉄が連勝すれば近鉄が優勝、一試合でも引き分けるか負けるかすれば西武の優勝という大一番。第一試合は近鉄が執念の勝利。優勝の行方は最終戦へもつれ込んだ。その時の近鉄選手のプレー一挙手一投足が放つテンションは神がかり的に高く、テレビの画面を観ているだけで、身体が震えてくるほどだった。結果、時間切れ引き分けで、西武が優勝した。

引き分けが決まった瞬間、放心の近鉄選手。故障でベンチ入りできず、ネット裏で応援していた金村義明選手が悔しさのあまり大泣きしている。そうした光景がテレビの画面に大写しにされた。僕も悔しくて泣いた。そして野球の本当の感動を知った。

翌年、近鉄は雪辱を果たして優勝。しかし、日本シリーズでは巨人相手に3連勝の後で4連敗。あと一歩で涙を飲んだ。風向きを変えたのは、3戦目の勝利投手・加藤哲郎がインタビューで放った不用意な一言(あえて省略)だった。その一言が巨人選手の逆鱗に触れてしまった。こんな「どんくささ」も近鉄の魅力だ。豪快で自由奔放な野武士たちが個性を競い合う球団だった。*3

その頃の近鉄の監督が仰木さんなのだ。その仰木さんが後にオリックスの監督に就任し近鉄と戦うことになった時には、とても複雑な思いがしたものだ。オリックスの球団イメージは近鉄に比べると洗練されすぎていたのだ。しかし、近鉄でもオリックスでも、仰木さんは「マジック」を連発したてくれた。

ファンを大切にした。勝っても負けても、ファンに喜んでもらえる試合を作った。

選手を愛した。ただ愛しただけではなく、名伯楽として選手の潜在的能力を見極め、個性的なプレーヤーとして育てた。結果を出した。野茂、吉井、イチロー、田口、長谷川らの名前を今さら挙げる必要もないだろう。

昨年、体調不安を抱えながら、球界最年長監督として現場に復帰した。オリックス近鉄との融和のために、選手とファンのために、文字通り命を削ってグラウンドに立っていたのだ。本当に偉大なお方だ。「戦死」(スポニチ)とは言いえて妙である。

今夜は枕を涙でぬらしながら、「10・19」の思い出にひたりたい。心よりご冥福をお祈りします。

追伸。僕は阪神ファンではないけれど、仰木阪神を一度でいいから見たかった。陽のあたる場所でも映える監督だと思うから。

*1:残念ながら、昨年オリックス球団との統合によって消滅した。

*2:ニュースステーションの時間枠を割いて特別に生中継していた。

*3:こうした野武士精神は仰木監督勇退後も選手たちの間に引き継がれた。2001年のペナントを北川選手の代打満塁逆転サヨナラホームランというド派手なやり方で勝ち取ったことは、記憶に新しいだろう。