Neil and Rush and Me

Neil PeartのドラムとRushの音楽をこよなく愛する大学教員の日記(雑記)帳です。

13期生卒業論文報告会(最後の授業参観)

13期生卒業論文報告会


ゼミ活動の最後を締めくくる恒例行事「卒業論文報告会(最後の授業参観)」を今年も開催した。

これまでの卒業論文報告会の記録は以下。

昨年「僕自身は年末年始傷だらけになったが・・・笑」と書いたが、今年はもっと傷だらけになってしまった。これはまったくの想定外で、本当に参った。しかし、傷だらけになりながらも、何とか19名全員が卒論を提出して報告会でプレゼンできる状況にまで持ち込めた。徒労感と安堵感が入り混じった複雑な心境である。

正直に書こう。全体として見た場合、卒論のクオリティそれ自体はここ数年でいちばん低い。これから本格的な分析が始まる手前で終わってしまった論文、他人の説の紹介によって字数を埋めているだけでオリジナルな批判的視点を欠いている論文が残念ながらあまりに多い。魂がこもっていないので、心が揺さぶられないのだ。読んでいて面白くないのだ。就職活動の後ろ倒しの影響があったとはいえ、ゼミ生が卒論執筆にかける時間も情熱も例年に比べて明らかに不足していた。

しかし、西日本インカレや学内ゼミ大会などのためにプレゼンテーション修行を相当に積んできたおかげで、内容の浅薄さをプレゼン技法によって結構カヴァーできており、不覚にも感心してしまった。サーヴィス精神が旺盛なのだな。これはある意味、ゆとり世代の底力なのかもしれない。自分の学部学生時代を思い返すと、今の学生のプレゼン能力を超えられる学生は一人もいなかったように思う。当時はプレゼンが重要視されておらず、内容に比してプレゼンがうますぎると、かえって「しゃべるほうは達者だが・・・」と揶揄される時代だった。学力低下云々が言われるが、僕はゆとり世代の学力がそれ以前の世代に比べて下がったとはあまり思っていない。誇るべきor力を注いだ学力分野が違ってしまっただけなのだと思う。

ただ、報告の技法は、報告の内容を聴衆に正しく・わかるやすく伝えるための手段にすぎず、それ自体が目的であるわけがない。報告の内容と技法は確かにどちらも重要だが、前者が主で、後者が従である。逆はありえない。後者によって前者の浅薄さをごまかす/隠蔽する悪癖を身に着けて欲しくない。いつでも小手先のテクニックに頼ってその場をしのぐことができるわけではないし、社会人生活ではそういう場面はむしろ少なくなるわけだから、13期生の諸君には(もちろん全員ではないが)今回の卒論執筆の苦労を教訓として、常日ごろからコツコツと妥協なく努力して自分の持てる力をしかるべき本番で出し切ることの大切さを再認識してもらいたいところだ。「この程度でいいや」と思った瞬間に人間としての成長は止まってしまうものだ。

何事も最後が肝心なので、どうしても厳しい書き方になってしまったが、13期生が2・3回生時のこれまでのどの期よりも活発に活動していたことは、僕自身も十分に評価している。潜在的能力が非常に高い学年だった。期待値も高かった。だからこそ、就職活動を経て、学びへの意欲が停滞し、活動が失速してしまったことが残念でならない。

13期生はかじ取りが本当に難しい学年だった。最後まで辛抱強く全体の統率に努めてくれたゼミ長のM下さんには、これまでのどの期のゼミ長よりも「ありがとう」「ご苦労様でした」を言いたい。そして、卒業論文集の中に印刷される最終ヴァージョンの提出締切は2月8日なので、その日まで一人でも多くの13期生がベストを尽くしてくれることを信じたい。

今日の報告会の出席者は、現役ゼミ生33名+OB/OG22名+卒業生の家族19名=74名であった。