Neil and Rush and Me

Neil PeartのドラムとRushの音楽をこよなく愛する大学教員の日記(雑記)帳です。

16期生卒業式

「晴れ男」は今年も健在。16期生の卒業式も好天に恵まれた。例年のように1人1人に卒業証書を手渡すわけだが、今年はどうしても内心穏やかでいられなかった。この日記でも以前に記したように、16期生はこれまでのどの学年と比べても勉学・活動意欲の低さや主体性の欠如が目立ったため、3回生の終了をもってひとまずゼミ活動を停止し、「解散」したからである。初心に帰って新16期としてのゼミ活動の再始動を目指したものの、再面接に応じたのはMSD君だけであった。彼以外の16期生全員が4回生のゼミ活動から離れ、僕との関係は卒論の個人指導だけになった。*1同調圧力のとりわけ強いクラスだっただけに、僕と一対一の関係になることでそうした集団の圧力から解放され、自分自身と真摯に向き合い、最終的に卒論を立派な水準に仕上げてくれた者も何名か出て来てくれた(NGIさん、SNGI君、STOK君、TJNKさんら)。これは素直に喜びたい。他方で、最後までエンジンがかからず低空飛行を続けた者も少なくなかった。2期生から14年間続けてきた卒論報告会も、この学年ではついに開催できなかった。秋の時点での卒論の完成度があまりに低く、とても他人様を招いて見せられるレベルではない、と判断したためである。「単位さえあればいい」「卒業さえできればいい」というモチベーションの低さに僕が敗北した形だ。これまで積み上げてきたものが崩れてしまったわけで、悔いがないと言えば嘘になるが、3回生終了時点で大ナタをふるわず何も問題がなかったかように最後の1年をやりすごしても、甘えと惰性がいっそう蔓延し、もっと悲惨な結果になっていたであろう。意欲ある学生の潜在的能力が発揮されないままに終わることだけは絶対に避けなければならなかったので、現状でよしとするしかない。前向きに考えれば、人によって学びへの意欲を掻き立てられるタイミングは違っており、社会人になって何かをきっかけにして急に学びへの意欲が高まる者もきっといるはずだ。その時に僕が必要とされるなら、最大限のサポートを約束するつもりがあるし、実際、今日の祝辞でもそういう趣旨のことを述べた。「教師と学生がいればそこは大学になるのだ」というのはドイツ中世史の権威・阿部謹也先生の言葉だったように記憶しているが、この場合、ただ単に教師と学生がいるだけではもちろんダメで、両者は学びへの情熱で結ばれていなければならない。「馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできない 」ということわざもある。5年後になるか10年後になるかはわからないが、そうした気付きがいつか16期の誰かに訪れて、その誰かと新たに(今度こそ本物の)16期ゼミを――安い居酒屋の片隅でかまわないので――スタートできることを信じたい。今日彼らから贈られたダンヒルのネクタイをその時に着けて行ければいいな。みんな、ありがとう。やさしい先生じゃなくて、ごめんな。社会人としての君たちの健闘を祈ってやまない。

【8066】 腹筋3セット。

*1:新16期はMSD君にMTMTさん(元15期)、ISZKさん(元hosenゼミ)、Jさん(院生)が加わり、4名で充実した1年間の活動を展開できた。ISZKさんにいたっては、卒論が経済学部懸賞論文で最優秀賞の名誉にあずかった。