O阪府大K藤ゼミにゲストスピーカーとして招かれる。
マーシャルの専門家であるK藤さんは、僕の師匠T中H夫先生の兄弟弟子であり(T中M晴門下)、僕にとっては叔父弟子にあたる。大学院ゼミで拙著『イギリス保守主義の政治経済学―バークとマルサス』をテキストとして読んでくださっていて、その締めくくりとして、著者である僕が呼ばれ、院生からの質問に答えることになったわけである。
とりわけ、(1)僕がバークをハイエクよりもケインズに引き寄せて理解していること、(2)「保守主義」という言葉を使用しているにもかかわらず、保守すべき価値の中味を明示していない(意図的にそうしたわけなのだが)ことに、議論が集中した。
(1)は書評の中でO越先生からも質問されたトピックであり、バークの政治経済学を「慎慮の政治経済学」として把握することの妥当性に関わっている。ハイエクは政治家の「慎慮」を彼自身の社会哲学においてどのように位置づけているのか? その理解いかんによって、バークとの距離は近くも遠くもなる。僕は政治家の「慎慮」を重視しているのはハイエクよりもケインズのほうだと理解している。ハイエクが好意的に理解したバークの思想は、バークの政治経済学のごく周縁部分でしかない。
(2)について言えば、方法的態度として保守主義を捉えたことに、なかなか賛同が得られなかった。僕自身、拙著のタイトルとしてもともと『英国保守的自由主義の社会経済思想』を考えていたわけだが、そのように考えたのは、「主義」という言葉が特定の価値内容を指し示す言葉としてイメージされやすく、読者をミスリードするからである。僕の本懐はその点にはない。福田恒存は論文「私の保守主義観」において「私の生き方ないし考へ方の根本は保守的であるが、自分を保守主義者とは考へない。・・・保守的な態度といふものはあっても、保守主義などといふものはありえない」と述べているが、まさしくその通りなのである。結局、当初のタイトルは「冗長でくどいわりにはインパクトに欠ける」と版元の編集者に諭された結果、現在のタイトルに落ち着いたわけだが、ミスリーディングの謗りは免れない。ただ、どのようなタイトルを付けても一長一短で、最終的に編集者の判断は正しかったと思っている。何より僕自身が気に入っている。
懇親会は、淀屋橋にて1次会、天満橋にて2次会。2次会の最中に驚愕のニュースが届く。それが本当であれば、年末はかなり慌しくなりそうだ。連絡可能な範囲内で、ゼミの卒業生にメールで連絡する。本当でないことを祈る。
腹筋2セット。