Neil and Rush and Me

Neil PeartのドラムとRushの音楽をこよなく愛する大学教員の日記(雑記)帳です。

卒論指導に悩む

12/27-28の東京出張(経済学方法論フォーラム)の新幹線の指定を買おうとしたら、28から始まる年末の帰省ラッシュの影響をもろに受けて、指定の空きがほとんどなくなっていた。希望していた東京発11時前後よりも2時間も遅い便のB席にようやく空きがあったので、それで我慢することに。危うく京都へ帰れないところだった。

昼休み、研究推進部の会議。3限、18期生KRG君&KW君の卒論の個人指導。4限、5限の授業の予習。5限、英語演習。

卒論が必修化されて5年になる(12期~)が、必修化の罪深さをここ1, 2年感じることが多い。卒論のクオリティの低下傾向になかなか歯止めがかからない。強制されると嫌になり最少の労力で切り抜けたくなるのが人間の悲しい性である。かつて、まだ卒論が必修化される以前(1~11期)、弊ゼミでは「卒論は必ず書いてもらいます」という条件でゼミ生を募集していたので、卒論を書き、ただ書くだけでなくて報告会でプレゼンして喝采を浴びて、それで卒業式を迎える、というのは弊ゼミの誇るべき伝統であった。卒論を書くのを面倒に思う学生は、そもそも最初から弊ゼミを応募してこなかったのだ。しかし、最近では一部のゼミ生から、「卒論を書かずにすませられるならばそうしたい」「卒論を書かなければならないなら、できるだけ少ない労力で書き上げたい」という本音が何となく伝わって来て、指導教員としては落胆の気持ちを禁じ得ない。

彼らのこうした傾向の根本にある考え方は、主体レベルの効用の極大化である。他者への意識はそこにはない。この考え方に従えば、「後輩の見本になるような立派な卒論を書きたい」と意識して、60点の卒論を90点の卒論へとブラッシュアップするために追加的に勉強することなど、この上なく非効率であり、愚の極みということになる。必修化されて、卒論はゼミの最終目的から卒業のための単なる手段に成り下がってしまったわけだ。彼らはそうした意識の変化を明確に自覚しているわけではないにしろ、悲しいかな、実際の行動でそれを示している場合がかなり多い。僕の個人的な時間は無慈悲に奪っていくわりに、(例えば)後輩育成にために時間を捧げることなどには、きわめて消極的あるいは無関心なのだ。

どんなテーマでもかまわない。卒論は、一切の妥協を排して、自分の納得のいくまで、とことんこだわって書く。後輩ゼミ生の見本になる。これこそが最強の大学生活であり、一生の財産である。この理念に共鳴できる者だけが弊ゼミのドアをノックして欲しいのだが、今や「ミクロ・マクロが要らない」「『学生主体』だから強制が少なく先生も口うるさくない」楽勝ゼミとしてしか認知されていないのかもしれない。どうすればこうした悪しき傾向にストップをかけられるのだろうか。悩める日々が続く。

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